東京高等裁判所 昭和49年(う)947号 判決 1974年8月16日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は東京地方検察庁検察官伊藤栄樹作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は弁護人渡辺良夫作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらをここに引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。
所論は要するに、原判決は、本件公訴事実中無印公文書偽造同行使の点につき、本件の衛生検査技師免許証の写は被告人がみずからの権限において作成した私文書であり、本件では単に内容虚偽の私文書を作成したにすぎないものであつて、無印公文書偽造罪は成立せず、またその行使罪も成立しないとして、無罪の言渡をした。しかし、本件の免許証の写は複写機によつて作成されたものであつて、手書きによる写と異なり、原本の筆跡形状をあるがままに写し出し、みる者をして原本の存在と内容を強く推認させ原本によるのと同じ証明力を持つものとして社会的に通用し得るものであつて、すぐれて原本的性格を有するものである。したがつて、そこに記載された意識内容は被告人に対する衛生検査技師免許の証明であるから、本件の免許証の写は、その意識内容の主体たる厚生大臣作成名義の公文書であるといわなければならない。また、写は一般に誰でも作成できるものとしても、それは原本の作成名義人によつて正当な写を作成する限りにおいて消極的に許容された権限として認められるのであつて、権限を逸脱し原本と内容を異にして作成された写については、原本の作成名義の冒用として、その作成名義人は原本の作成名義人とみるのが相当である。しかるに、原判決は刑法一五五条三項および一五八条一項の解釈適用を誤り、本件の免許証の写を被告人みずからの権限で作成した私文書とみて、無印公文書偽造罪およびその行使罪のいずれも成立しないと判断しているのであつて、右法令適用の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない、というのである。
そこで記録を調査して検討するに、原審で取調べた関係各証拠によれば、本件公訴事実中無印公文書偽造同行使の事実にほぼ相応する事実、すなわち被告人が衛生検査技師として就職するに際し就職先から衛生検査技師免許証写を提出するよう求められ、たまたま入手した厚生大臣斉藤昇作成名義の同大臣の記名押印のある猪股春美に対する衛生検査技師免許証を複写機で複写した写一通を利用して、自己に対する同免許証の写を作成しようと考え、公訴事実記載の日時場所で右免許証写の名宛欄「宮城県」「猪股春美」「昭和二五年一月一〇日生」とある部分に紙片を貼付してこれを抹消し、これを複写機で複写したうえ。右の紙片貼付の空白部分にマジツクペンで「北海道」「工藤美登」「昭和一八年一二月一五日生」と書き込み、更にこれを複写機にかけてその写をとり、あたかも自己宛に発行されたものであるかのようにみえる衛生検査技師免許証の写三通を作成したうえ、公訴事実記載の各日時場所で、青山外科病院事務次長に右免許証の写二通を、大橋病院事務長に右免許証の写一通を各提出したことを認めることができる。
しかしながら、右の事実関係において被告人が作成した衛生検査技師免許証の写三通が無印公文書偽造同行使罪の客体たる公文書に該るかどうかの点については、当裁判所もまた原判決と同じく消極に解さざるを得ない。その理由は、原判決が無罪部分の理由として詳細に説示するところと同一であつて、これに附加すべきものもないというべきであるが、なお所論にかんがみ若干の説明を補足する。
本来、証明の用に供される写なるものは、直接原本の記載内容たる事実を証明するのではなく、写に記載されたところと同一内容の文言の記載された原本が存在することを証明し、ひいて原本に記載されたとおりの事実が存在することを間接的に証明するにとどまり、したがつてまた、その意味でのみ、換言すれば、写である旨の認証があるか、またはその旨の表示が文書全体の趣旨から認定し得るときに、その認証関係においてのみ、写自体にも、原本の存在を証明する証明文書としての文書性が認められるのである。
所論は、その援用する名古屋高等裁判所昭和四八年一一月二七日判決(以下名古屋高裁判決という)の内容をも併せみれば、本来写による証明の対象は原本の存在事実であるということまでを否定するものではないと見受けられるにもかかわらず、複写機による写は原本をあるがままにきわめて正確に写したものであり、みるものをして原本の存在と内容を強く推認させるから、原本と同視すべきものであり、したがつてその作成名義人は原本の作成名義人とみるべきであるというのであるが、複写機による写は、写し間違いや作為による虚偽の記載が入り込む余地が通常あまり考えられないことから、手書きの場合と比べその証明力が一段と飛躍的に高められるといい得るとしても、写による証拠の対象は、前述のとおり、あくまでも直接には原本の存在ということであるから、その証明力が量的にいかに高められたところで、それが写であるにとどまる限り、質的転換を遂げ原本そのものないしこれと同視すべきものに転化するとは、とうてい考えられないのであつて、所論はこの点で論理の飛躍ないし矛盾が存するといわなければならず、所論が援用する名古屋高裁判決もまた、これと同様の誤りをおかしているものといわなければならない。
所論はまた、写の作成は原本の作成名義人から消極的に許容された権限として認められるのであるから、権限を逸脱し原本と内容を異にして作成された写については、原本の作成名義の冒用として、作成名義人は原本の作成名義人とみるべきであるというが、繰返してのべるように、写は原本の存在を証明するために作成される文書であるから、原本の存在を証明しようとする者が、その簡易軽便な方法として、一般に誰でも自由に写を作成する権限を有するものといわなければならず、原本の作成名義人から許容された権限として認められるにすぎないものではないと解すべきである。このことは、所論に従えば、原本と内容を異にする写が作成された場合、これが手書きによるものであつても、あるいはまた、これに作成者による認証文言等が付記されていても、すべて原本の作成名義の冒用として原本文書の偽造罪が成立することとなつて、実際上不都合な結果を生じることからも明らかである。
所論は更に、前記名古屋高裁判決ほか二、三の下級審判例を引用し、これらと見解を異にする原判決を非難するが、名古屋高裁判決についてはすでに触れたとおり当裁判所もその見解には左袒できないものであり、その他の下級審判例はいずれも本件と事案を異にし適切でなく、なかんずく、他人の卒業証明書を自己のものに偽造し、これを反転複写法という技法で複写して行使した事案について、有印公文書偽造同行使罪の成立を認めた態本地方裁判所昭和三八年一二月一一日判決は、弁護人提出の福岡高等裁判所昭和三九年九月一四日判決の写によると、その控訴審において破棄自判され、写の作成行使部分について有印公文書偽造同行使罪の成立が否定されていることが明らかである。
以上のべたとおり、論旨はすべて理由がなく、採用できない。
よつて刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(矢部孝 藤原高志 佐々木條吉)